あいちトリエンナーレ2019 私的ガイド 

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<記者が見たトリエンナーレ>(上) アートと非アート  中日新聞9月7日文化面

<記者が見たトリエンナーレ>(上) アートと非アート 

2016/9/7 朝刊

頼志盛さんのインスタレーション「境界・愛知」。壁にぴったりと体を寄せて回廊を歩く人たち。床には制作過程で生じた廃材が置かれている=名古屋市美術館

 床に“ごみ”が散らばっている。壁沿いの高さ一・二メートルの位置には、一人がどうにか通れる幅三十センチの回廊がある。国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2016」の現代美術の会場の一つ、名古屋市美術館に出展されたインスタレーション「境界・愛知」。これも作品? アートって何だろう? 素朴な疑問が頭の中を駆け巡る。

 作者の頼志盛さん(台湾)は「私たちの生活とアートの境界がどこにあるのかを考えるきっかけになれば」と意図を話す。最小限の要素で表現するミニマリスト。床に一見無造作に置かれているのは、壁や回廊を作る過程で生じた鉄くずや木片、塗料入れなどの廃材だ。「ごみに見えるものももとの材料は同じ。ごみと作品の境界は何でしょう」と問い掛ける。

 「私は指示を出すが、実際に鉄骨を組み立て、クロスを張って作るのは大工さん。アーティストとそうでない人の境界は何なのか」。通常は捨てられる廃材をあえて残すことで、作品の背後にある人の関わりを示した。三年前から「ボーダー(境界)」を創作テーマにしてきた。「完成品ばかり注目され、意識されてこなかった目に見えない労働を見直してもらいたい」

 全長五十メートル弱の回廊を、ある人は壁に右半身を預け、別の人はリュックを前に抱えて壁を背に、恐る恐る歩く。開幕時に真っ白だった壁や通路は、一カ月もたつと来場者の手あかや足跡で黒ずむ。空間をキャンバスに見立て、来場者に作品の行方を委ねているわけだ。頼さんは「大勢で絵を描く」と表現する。床から回廊を移動する人を見上げた。回廊で立ち止まり、思案顔でこちら側を見下ろす人もいる。人間も作品の一部と化し、頼さんは「いろいろな見る、見られる関係が生じるのも大事」と話す。

 出展作が多様なら場もまたそう。美術館だけではない。

 シュレヤス・カルレさん(インド)が愛知県岡崎市で展開するインスタレーション「帰ってきた、帰ってきた:横のドアから入って」。住居として使われていた戦後間もないモダニズム建築内部に、洗面台に水が張ってあったり(「蒸発する鏡」)、台所に先端が極細の箸が置いてあったり(「先細りの詩性」)。

 名古屋市長者町繊維問屋街の民間企業のビルでは、インドネシアのアーティスト集団「ルアンルパ」が“学校”を開いている。大木裕之さん(高知県など拠点)は、自らの生活自体を見せる映像インスタレーション「カンシー/レキシー/テレパシー」を披露している。

 港千尋芸術監督は「アートの定義が広がり、個の訴えや表現から開かれたものになっている」と話す。アートとは-。街の美術関係者らは「先端性がある」「実用目的でない」「人生を豊かにする」ものという。「作者がアートと言えばアート」とまでも。港監督は「アートは時代や社会などの文脈によって大きく変化する。一義的には定義できないのでは」と前置きした上で、こう話す。「私にとっては、今ある現実とは違う、別の現実があると認めること」

 取材先ではこんな声も聞いた。「分からないことが面白い。自分で問いを探し、価値を見いだしていく」

 (谷知佳)