喜楽亭ドリル 二ノ間 神風と同期の桜
二ノ間は一つのスクリーンの裏表で映像が異なる。順番としては、一ノ間でオープニングというか、全体把握が出来るガイダンス、二ノ間で「草薙特攻隊」の話を理解してからの方が入りやすいと思う。
「神風」特攻隊と呼ばれたものだが、この神風は蒙古襲来の時から使われていた言葉なのだと思い出した。それをトモが語るが、教科書にも使われていることを忘れていた。
元々神風は、日本書紀にあった言葉だったのだ。蒙古襲来時から肯定的に使われ、映像内でも紹介される「神風号」の話。
三菱製の飛行機だったそうだ。操縦士だった、
の話が紹介される。真珠湾攻撃の報を聞いて、放心してプロペラに巻き込まれて死亡した話も異説としてあるようだが、異国の話だ。
二ノ間のここでの振動は、明らかにプロペラ機が飛び立つ音、そして敵機が近付いてくるような恐怖すら感じる。
そして草薙特攻隊の集合写真と、その後を現わした文字が浮かび上がる。
四ノ間でも語られる「同期の桜」の歌詞が読み上げられて紹介される。
このブログにもあるように4番は靖国神社で咲いて会おうと歌う。
喜楽亭ドリル 四ノ間 三木清と東亜協同体論
「親愛なるツーニン」である、旅館アポリアの作者ホー・ツーニェン。
ホー・ツーニェン――マッピング、虎、そして演劇性:メディアを超えて不定形の歴史を語る | 特集記事 | 国際交流基金アジアセンター
東アジアで王とあがめられる虎の作品があるが、今回は豊田という土地の記憶をモチーフにしながらも、東アジア的な視点を交えた作品、哲学的な物があった。
一ノ間で触れられる京都学派にも通じるが、四ノ間で本格的に語られる物が、東亜協同体論だ。
この東亜共同体論の中心人物が三木清。
しかし、彼は1945年9月26日に投獄による衛生状態の悪化で獄死。
人生論として今でも通じる考えを持つ人物だったようだ。
喜楽亭ドリル 戦後カットされた小津の映画
父ありき - Chichi ariki - There Was a Father (1942) Yasujirô Ozu
四ノ間「子どもたち」の小津安二郎映画が紹介される際、作中から戦後削除されたシーンの紹介があります。
映像で紹介されているシーンは、多くの箇所の一つだと思われるのですが、四ノ間で紹介されているのは、出兵する息子を送る際の「正気歌」は、日露戦争で軍神とされた広瀬武夫の漢詩。
海ゆかばが流れるラストシーンも戦後カットされたそうだ。GHQの検閲でカットされたそうだ。(小田原のどかさんのGHQの銅像に対するインタビューを思い出す)。
YOUTUBEで、父ありきを観ることができるようですがカットされた物だと思われます。(94分が86分になっている)
喜楽亭ドリル 小津安二郎とは
Wikipediaにもある小津のシンガポール従軍中に作成しようとした映画は、『オン・トゥー・デリー』という仮題のつけられたチャンドラ・ボースの活躍を映画化したものでしたが、戦況悪化で作成できませんでした。シンガポールで終戦を迎えた小津は、同地では「映写機の検査」の名目で大量のアメリカ映画を見ることができたという。その中には『嵐が丘』『北西への道』『レベッカ』『わが谷は緑なりき』『ファンタジア』『風と共に去りぬ』『市民ケーン』などが含まれていたとのこと。
四ノ間の最後に無音で映し出される小津の墓。「無」と言う文字の墓は鎌倉にあるようです。
ちなみにチャンドラボーズはこちらで。インパール作戦にも関与のある人物でした。また、死亡地は台湾でした。
喜楽亭ドリル 四ノ間 横山隆一のジャカルタ記
喜楽亭四ノ間で紹介されているフクちゃんの作者、横山隆一のことを調べてみました。
横山隆一は、1942年に陸軍報道班としてインドネシアのジャワ島に赴いたことが、この記事からも分ります。
の序文は、陸軍宣伝班長の町田敬二中佐は武漢作戦で勲三等をもらった優秀な軍人で、映画も作り文章も書ける人が序文を書いていました。(当時の横山の上官に当たる人)。
横山のインタビューの読み上げは、桜本富雄『戦争とマンガ』(創土社、2000)から引用されたものです。それがナレーターによって淡々と読み上げられます。なか見で少し見ることができます。
- 作者: 桜本富雄
- 出版社/メーカー: 創土社
- 発売日: 2000/05
- メディア: 単行本
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13日の講演会に向けての自主勉強のため、ブログを更新します。
続きを読む「はじめてのあいちトリエンナーレ」豊田市インフォメーションで配布中
お勧めの喜楽亭は掲載されていないのですが、豊田市駅周辺の展示作品(すべて観覧無料)の分りやすい解説です。
難しそうとは思わず、こんな見方もできるのだとヒントもあります。
ぜひ、お越しを・・・・会期が終われば残る物は、レンタル赤ちゃんの壁画のみと思われます。
喜楽亭ドリル 四ノ間「子どもたち」フクちゃんの潜水艦
四の間で紹介されるフクちゃん。小津の画像にもフクちゃんが敬礼している姿が出てきて、不思議なシンクロを覚えます。
8月10日のTBS報道特集で松本零士さんが、フクちゃんの潜水艦の話をしていてから、作品を観たいと思っていたら、YOUTUBEにありました。
ー引用ー
漫画家の松本零士(81)は「宇宙戦艦ヤマト」など大ヒット作品を世に送り出してきた。初めて戦争の恐怖を覚えたのは7歳のときだった。漫画家としての原点は、戦時中に見たアニメにあるという。昭和19年に作られた「フクチャンの潜水艦」では子どもに人気があった主人公のフクチャンが、潜水艦に乗って街を砲撃したり、魚雷でアメリカの空母を沈めたりするシーンが描かれている。
松本氏の自宅には当時、フクちゃん以外にもディズニー映画があったそうだ(親御さんの方針だったらしい)。比べれば明らかに、この映画は戦争利用されたものだと、当時7歳の少年でも感じたのだろう。
四の間の語りで横山が言う「僕の映画をみて戦争に行ったとい宇人は聴いたことがありません」というナレーションに被さるフクちゃんの声やBGM。爆破される敵の潜水艦や飛行機と同時に旅館アポニアが振動します。
調べてみると、あのBGMは大ヒットになっていたのだ。
ー引用ー
1942年の『フクちゃんの奇襲』、1943年の『フクちゃんの増産部隊』に次ぐ、フクちゃん3本目の主演アニメ。原作者の横山自身が、関屋五十二の名前で演出を担当している。日本で初めて、アニメ作品用に作られた楽曲がレコード化されたものとしても有名。ただし主題歌「フクちゃん部隊出撃の歌」よりも、アラクマさんのCVを演じた大喜劇スター・古川録緑波の歌う挿入歌「潜水艦の臺所(台所)」の方が大ヒット。同曲は、戦後の少年海洋漫画の人気作『サブマリン707』(小澤さとる)の作中にも、少年水兵が口ずさむ歌として登場した。
しかし、この映画は「高知県の横山隆一記念まんが館には収蔵されていません」。
自分も来訪したことがあるが、まったくフクちゃんに戦争のイメージを思い起こさせるものは排除されていた。戦争のイメージが強いキャラクターだというのは、当時(大河で龍馬伝が放映されていた頃)も思い出していたが、今になって思い起こすのは不思議な感覚です。(HPの年表には、以下のとおり記述あり)
1941年 6月、朝日新聞中部版に「アルケフクチャン」登場
1942年 「ジャバのフクチャン」登場(作者ジャワへ従軍のため)
1944年 11月、アニメーション「フクちゃんの潜水艦」封切(横山隆一演出)
1945年 米軍マニラ司令部発行の伝単、落下傘ニュースに「フクちゃん」が無断転用・連載される。敗戦後、漫画原稿配給組合により、地方紙16紙にフクちゃん連載開始。
1950年 サンデー毎日に「デンスケとフクちゃん」連載。当時毎日新聞連載の「デンスケ」とフクちゃんがコンビを組んだことで注目された。
↑ 10月13日トークあります。YOKOもKAZUEも、実際の人物が紹介されるでしょう。