あいちトリエンナーレ2019 私的ガイド 

私的にあいちトリエンナーレのご案内をします。情報の詳細は公的なものでお確かめください。

豊橋市美術博物館情報 10月23日まで 山下清展 中日新聞紙面より

路面電車に乗れば、すぐアクセスできますよ。

 

放浪の画家の作品131点 豊橋山下清展 

2016/9/23 紙面から

「長岡の花火」を解説する山下浩さん=豊橋市美術博物館で

「長岡の花火」を解説する山下浩さん=豊橋市美術博物館で

 全国を放浪し、色鮮やかな貼り絵を作り続けた山下清(一九二二~七一年)の作品を集めた「市制施行百十周年記念 放浪の天才画家 山下清展」(豊橋市美術博物館、中日新聞社主催)が同市今橋町の市美術博物館で始まった。十月二十三日まで。

 貼り絵やペン画、油彩を中心に百三十一作品を展示。放浪中のリュックサックや浴衣、日記などの資料もあり、旅路をしのぶことができる。

 初日は開場式があり、関係者がテープカットで祝った。続く内覧会では、おいで山下清作品管理事務局代表の山下浩さんが作品を紹介した。

 代表作の貼り絵「長岡の花火」(五〇年)は、清が一年前の夏に現地で見た花火を思い出して表現した作品。当時の花火大会は連発で打ち上げるのではなく、一発ずつ打ち上げるものだったが、絵では複数の花火が描かれている。浩さんは「時間軸を縮め、多くの映像を一つの画像として表現している」と解説した。

 館内では、カフェレストラン「ポールダール」が展覧会に合わせて同日からオープンし、来館者でにぎわった。

 月曜は休館。十月十日(月・祝)は開館し、翌日が休館日となる。会期中の金・土・日曜日と十月十日は午後七時まで開館している。一般・大学生は千円、小・中・高校生は四百円。

 (阿部竹虎)

【あいちトリエンナーレ2016特別連携事業】「アッセンブリッジ・ナゴヤ2016」がはじまります

【あいちトリエンナーレ2016特別連携事業】「アッセンブリッジ・ナゴヤ2016」がはじまります | あいちトリエンナーレ2016

 

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3月プレイベントに行きました。

早く行きたいですね~音楽とアートがみなとまちに心地よいです。

9月25日(日)豊橋にて、トークイベント「トリエンナーレ ティータイム トーク3、4+」を開催します

9月25日(日)豊橋にて、トークイベント「トリエンナーレ ティータイム トーク3、4+」を開催します | あいちトリエンナーレ2016

 

■[19:00~21:00]アフターパーティー

  楽しそうです。

 これだけでも楽しめそうです。

 

 

10月16日日曜日 関口涼子 ワークショップ 『香りのパレット』

関口涼子 ワークショップ 『香りのパレット』 | あいちトリエンナーレ2016

石原邸会場でスパイスの作品を展示している作家のワークショップです。

 

午前は、30名限定

関口涼子(あいちトリエンナーレ2016国際展参加アーティスト)+フェリペ・リボン(写真家)×港千尋(あいちトリエンナーレ2016芸術監督) | あいちトリエンナーレ2016

中日新聞 9月21日 美術 あいちトリエンナーレ2016 岡崎シビコ6階 野村在

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サイトに記事が見つかりませんでしたので、新聞紙面からです。

9月22日アーティストトークとパフォーマンスがあるらしい・・・

 

アーティストトーク「野村在」

■日時

2016年9月22日(木・祝)14:00-15:30

 

■会場

岡崎シビコ6階 展示スペース

※レクチャープログラムパンフレット記載が2階となっていますが間違いです。6階の野村在展示スペースでの開催ですのでご注意を!

 

■登壇者

野村在(あいちトリエンナーレ2016国際展参加アーティスト)

進行役/金井直(あいちトリエンナーレ2016国際展キュレーター)

 

野村在

1979年兵庫県生まれ

東京都拠点

 

樹脂でできた立体に生じるヒビ、局所的な爆発によって広がる灰のカタチ、闇のなかから強い光を浴びて浮かぶモノ。野村の関心は、作為と無作為の境界に生まれる不確定な範囲を、彫刻あるいは写真という媒体を通して、精確にえぐり出すことにある。もちろんそこに生成と消滅をくりかえす自然と人為の隠喩を認めることも可能であり、深く振動するタナトスの気配を語ることも許されようが、むしろ重要なのは、緊張と弛緩のあいだの移行状態、言わば微気象の変動を、ひたすら観察・記録する野村の着想と造形である。彫刻というジャンルが宿し続けてきた可能性(時間との密接な関係と写真との親和性)を、今、更新する契機を、彼の作品のうちに見いだしたい。

 

 

■本日のタイムスケジュール

14:00-14:15 パフォーマンス

14:15-14:20 開始の挨拶、登壇者紹介

14:20-15:10 アーティストトーク

15:10-15:30 質疑応答

15:30 終了

野村在(あいちトリエンナーレ2016国際展参加アーティスト) | あいちトリエンナーレ2016

 

どれくらいの方が中日新聞の美術欄を見ているかはわかりませんが、60名以上来てしまったらどうするのでしょう?

できる限り私も参加したいですが、本当に見たい人に譲ってしまう性格で・・・

中日新聞から <ニュースを問う> 過疎の町でのトリエンナーレ 

<ニュースを問う> 過疎の町でのトリエンナーレ 

2016/9/18 朝刊

バスの車体に落書きをして楽しむ参加者たち=愛知県設楽町

 八月のある朝、愛知県設楽町に向かった。本紙朝刊が地方版で報じた展覧会を見るためだ。愛知県が三年に一度、名古屋などで開く国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の移動展「モバイル・トリエンナーレ」。四十行ほどの記事が伝えたこの催しは、八月から文化部で美術を担当し始めたばかりの私にとって、目指す方向を決める体験となった。報告したい。

 午前六時に名古屋の自宅を出て、現地に着いたのは九時すぎ。気分はやや重い。三時間もかかったからではない。途中、朽ちた家や廃業した店など、寂しい光景を見かけたためだ。

 県内では三つだけの「過疎市町村」に指定された設楽町岐阜県の小さな町で育った私は、故郷が「過疎」にのみ込まれる悲しみと無縁ではない。ここも寂しい町なんだろうか。

◆わいわい落書き

 

 だが、会場である町内の特産物振興センターに着くと、そんな思いは吹き飛んだ。まず目に入ったのは、子どもや大人が何人も集まり、駐車している大型バスを取り囲んで、わいわいと楽しく落書きしている姿だ。芸術祭で、落書き?

 これは、愛知県を拠点に活躍するアーティストの河村陽介さんらによる企画。参加者は河村さんとモビールを作り、思い思いの絵や言葉を描いたバスの車内に飾る。そして、そのバスで町内を巡る趣向なのだ。

 落書きを堪能した参加者たちは、センターの一室に集まった。河村さんの指導で、色も形もさまざまなプラスチック片などを糸で細い棒にぶら下げ、ゆらゆらと動くモビールを作る。

 最初は子どもが「早く作りたーい」と声を上げていたのに、作り始めると大人が「その青い三角のやつを一つください」と張り切っている。ここで初めて会った人が「この赤い糸を使ったら?」と仲良く語る姿にもほのぼのとする。

 完成したらバスに乗り込む。世界に一つだけのモビールを好きな場所に取り付け、はじける笑顔の記念撮影を済ませ、さあ出発だ。

 河村さんの運転で、バスが町を行く。車窓から見た町内は、日曜なのに飲食店などが休業しており、歩く人も少ない。ちょっと元気がないようだが、そこに暮らす人が、大人も子どもも「アートの力」によって、こんなに活気あるひとときを過ごしたのだった。

 バスを降りたら、センター内の展示作を見る。愛知県長久手市の作家・今村文さんによる精緻な蜜蝋(ろう)画や、セミの生涯と人類の歴史を重ね合わせる竹川宣彰さん(埼玉県)の意欲的な油絵など優れた作品が並ぶ。

 だが、それ以上に印象深かったのは、場内のボランティアの女性の言葉だ。

 「初日は午後九時まで開いていたので、夜のウオーキングをしてきた女の人たちが、そのままの格好で来たんです」。設楽の人たちは、町で初めて開かれたこの国際芸術祭を堅苦しく受け止めず、文字通り“普段着”で接していたのだ。

 さらに女性は「トリエンナーレが設楽に来てくれたんだから、今度は私たちが名古屋に見に行きたい」。芸術は人を動かし、人と人を結び付ける。あらためてそう感じる一言だった。

 残念ながら今、日本の地方自治体は、芸術や文化の施策に熱心ではない。

 日本が景気のよかったころ、文化会館や美術館が競うように建ち、音楽会や展覧会が次々に開かれた。だが不況になると、文化や芸術は真っ先に邪魔者にされた。行政のリーダーの熱意も薄れたようだ。文楽を見て「つまらない」と言い放ち、補助金をなくそうとした前大阪市長は、その象徴のように思われる。

◆開催批判の声も

 

 そんな中で愛知県が開くトリエンナーレに対して、疑問や批判がないわけではない。二〇一〇年に始まった時には「県が税金でやる必要はあるのか?」「一体いつまで続くか」と、冷ややかな声も聞かれた。

 また個々の作品への批判も当然ある。今回も、古いビルに百羽の小鳥を放し、建物の内部を丸ごと「鳥のための空間」とするブラジルの作家ラウラ・リマ氏の企画に注目が集まる一方、生きものを“展示”することに、ネットでは小鳥の愛好家が「受け入れがたい」などと書いている。来場した人からも小鳥の安全を心配する声が聞かれた。

 だがそうした賛否はさておき、設楽からの帰り道、私は二つのことを考えた。

 今日みた笑顔のことを、いつか読者に伝えよう。そして、行政が芸術や文化にもっと力を注ぐよう問いかける記事を書こう。特に、未来を担う子どもが、都会に住んでいても過疎の町に暮らしていても、質の高い芸術に触れられるように。なにせ日本国憲法は、私たち国民に「健康で文化的な生活」を営む権利がある、と定めているのだから。

 一つ目は本欄のおかげで果たせた。あとはこれからの課題だ。読者のご支援とご指導をお願いしたい。

 (文化部・三品信)

中日新聞 <記者が見たトリエンナーレ>(下) アートと現実

<記者が見たトリエンナーレ>(下) アートと現実 

2016/9/21 朝刊

名古屋市美術館に展示された「被弾痕のある公益質屋遺構」=名古屋市中区で

 壁一面に黒い紙が貼られている。あちこちに色の違う部分があるものの、気にせず通り過ぎることもできる。だが、足を止めてじっくり眺めれば、忘れることのできないこの国の体験と記憶が浮かび上がる。

 これは「あいちトリエンナーレ2016」のために制作され、名古屋市美術館で展示中の作品「被弾痕のある公益質屋遺構」。題材となったのは、沖縄・伊江島に残る村営の質屋跡だ。

 島では第二次世界大戦末期の一九四五年四月、米軍と日本軍が激しく戦った。質屋の壁は分厚いコンクリートだが、米軍の砲撃はそこに大きな穴を開けた。その壁に紙を当てて、拓本のように刷り出す技法「フロッタージュ」で私たちの眼前に示すアートなのだ。

 制作したのは、北海道在住の岡部昌生(まさお)さん。四二年に根室市で生まれ、根室の街を焦土にした四五年七月の空襲では生家も焼失した。「三歳で見たそのまちの姿が自分の原風景」と語るこの作家の作品は今回、愛知芸術文化センターでも展示されている。

 題材は、原爆の惨禍を生き延びた広島市の被爆樹と、二〇一一年の原発事故で被ばくした福島県の木の切り株。福島では、子どもの学資や嫁入り費用となるはずだった民家の林や、神社のご神木さえ「放射性物質の除染」を理由に切り倒された。そこに焦点を合わせた岡部さんの作品群は、戦争から原発災害まで、この国が経験した近現代の一断面を、静かに深く描く。

 トリエンナーレでは、こうした私たちを取り巻く状況について考えさせられる作品に何度も出会う。

 沖縄生まれの作家、山城知佳子さんの新作「土の人」(名古屋・栄会場)は、戦争や軍隊に翻弄(ほんろう)される民衆に思いをはせさせる映像作品。戦火の下、泥まみれで逃げ惑う人々の表情を軸に、沖縄戦の戦闘や、いま辺野古名護市)で進む米軍の基地建設の現場など実際の映像を織り込み、強く訴えかける力を持つ。

 海外からも優れた作品が集まった。トルコの作家インジ・エヴィネルさんは、欧州連合(EU)の議会の建物が題材のアニメーションを出展した。ユーモラスな人々の動きを通して建物が収容所のように描かれ、EUに対するトルコの複雑な感情が感じ取れる。

 フランスの写真家マチュー・ペルノさんは、欧州で長く迫害されてきた移動の民「ロマ」の、今の素顔を伝える写真と映像を展示している(いずれも愛知芸術文化センター)。

 こうした創作が私たちに示すのは、作家が体感し、咀嚼(そしゃく)し、アートとして昇華させた同時代の現実だ。主義・主張を声高に叫んだりはしないが、それだけに心に深く染みてくる。

 「美術活動は、今の世の中をどう考えるかという問題と常に結びつく」とチーフキュレーターの拝戸雅彦さんは語る。「世界で何が起こっているかを示し、それに対してアートの現場でどんな表現が行われているのかを示すのがトリエンナーレ。それぞれの国の事情はありながらも、普遍的なメッセージを持ったものを紹介しています」

 そうした視点に基づき、国内外から選ばれた作品や舞台芸術が集まるトリエンナーレ。そこには、すでに評価の定まった名画や骨董(こっとう)を心穏やかに鑑賞するのとは違う体験が待つ。

 作品を時間をかけて見つめ、その背景を知れば、この連載の初回(七日朝刊)で紹介した港千尋芸術監督の「今ある現実とは違う、別の現実がある」という言葉の通り、それまで気づかなかった世界への窓口が開くことがあるのだ。

 会期は残り一カ月ほど。作品を見て心がざわついたり、違和感を持ったりすることもあるが、それでも「ぜひ一度会場に」とお勧めしたい。

 (三品信)

 

あいちトリエンナーレ2013には辛口だった地元中日新聞

今回はアートをどのように私たちがみるべきなのかわかりやすく表していてよい記事だと素直に思います。

単にアートを見るのではなく、作品の中にも作家の中にも自分の中にあるものを思い出させてくれる時間は貴重です。それは若いからとか難しいからとはでなく、誰にでも自由にあるものです。